大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和32年(う)1340号 判決

主文

第一審判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、被告人作成の控訴趣意書、弁護人足立達夫、同西ケ谷徹共同作成の控訴趣意書、弁護人海野普吉、同芦田浩志共同作成の控訴趣意書及び弁護人海野普吉、同芦田浩志共同作成の控訴趣意補充書及び弁護人海野普吉、同竹下甫、同内田博、同小田成光共同作成の控訴趣意書に対する補足陳述書記載のとおりであるからいずれもこれを引用し、これに対し当裁判所は次のように判断する。

足立、西ケ谷両弁護人の控訴趣意第一点、海野、芦田両弁護人の控訴趣意第二点(補充書の控訴趣意第二を含む)及び海野、竹下、内田、小田四弁護人の控訴趣意書に対する補足陳述書第一点並に被告人の控訴趣意中被告人の自白が任意性を欠くとの論旨について。

第一、差戻前の第二審判決の要旨

右各論旨に対し差戻前の第二審(以下原第二審と略称する)判決は、被告人の司法警察員に対してした自白が暴行、拷問及び誘導によるものであり、被告人の検察官に対する自白は被告人が真実を陳述するにおいては再び暴行を受けねばならないという畏怖の念からしたものであること及び被告人の司法警察員に対する自白が任意にされたものであるとの第一審証人紅林麻雄、同望月美之次、同鈴木忠雄等の各共述が偽証であることはいずれもこれを認めるに足りる証拠がないから、被告人の司法警察員及び検察官に対する各自白はいずれも任意性があり、第一審判決がこれを証拠に引用したのは違法ではないというのである。

第二、上告審判決の破棄理由

前記のような原第二審判決に対し、最高裁判所は警察における被告人の取調は司法警察員の第一、二審における弁明の証言にもかかわらず、被告人が第一審以来供述してやまない程苛酷なものであったかどうかは別としても、そこには可なり無理もあったのではないかと考えざるを得ない。即ち(一)被告人は第一審以来警察で紅林主任、小倉部長、矢部、鈴木両刑事から取調を受けたが、その際特に昭和二五年六月二〇日、同月二二日及び同年七月四日に刑事等から強制、拷問、脅迫を受けた、主として暴行等を加えたのは鈴木刑事であると主張していること(二)証人早崎俊造(収賄事件の被疑者として庵原地区署で被告人の隣房にいた)は第一、二審で「昭和二五年六月二〇日か二三日に房の横の看守の部屋で、被告人が足に赤チンを塗っていた、そこに刑事が入ってきてそんなになったのかと言っていた、被告人の膝から下の前の方に塗っていた」旨証言していること、(三)証人村瀬昭一(暴力行為等処罰ニ関スル法律違反事件で、被疑者として被告人と同房にいた)は第二審で「松永の左か右の頬に腫れたところがあった、殴られたと聞いたのでそのように思った」旨証言していること、(四)証人西山猛司(本件発生当時の庵原地区署警察官)は第二審で「七月六日と思うが、被告人が庵原地区署から静岡刑務所に送られるとき、同人にマーキュロとペニシリン軟膏を手渡した」旨証言しており、東京拘置所長の「収容者の領置品に関する件回答書」には、被告人が昭和二五年七月一〇日収容携入した品の中にマーキュロとペニシリン軟膏があった旨の記載があること、(五)証人松永勝子(被告人の妹)及び証人松永平次郎(被告人の父)は第一、二審で、「被告人が検察官等と現場検証に来た際(昭和二五年七月五日)左のもみあげのところが黒ずんでいた」旨証言し、証人松永きみ(被告人の母)は第二審で「被告人が現場検証に来た際肥えていると思ったが今思えばむくんでいたのである」旨証言し、前示松永平次郎は第二審で「その翌日苦情をうったえに但沼巡査部長派出所に赴いた」旨証言し、証人森亀太郎(警察官)は第二審で、「被告人の父平次郎が、昭和二五年七月六日同派出所を訪ねてきた」旨証言していること、(六)被告人の司法警察員に対する第三回供述調書(昭和二五年六月二二日附)によると、被告人は同日朝刑事に対しては自白を翻えしたが、後また犯罪を認めるに至ったこと、その取調の時刑事が長い棒を持ってきたことが窺われること、(七)被告人の司法警察員に対する各供述調書を仔細に点検すれば、被告人は本件自白の重要部分であり且つ記憶違いをする由もないと考えられる犯行決意の日時、手提金庫を開けようとして使用した道具の点について供述を変更していること、(八)警察で被告人を取り調べたのは紅林、望月両警部補、小倉部長、矢部、鈴木両刑事であって、紅林警部補が主として取り調べておきながら、自らは調書を作成せず、わざわざ望月警部補をしてこれを作成せしめるに至った理由が判然としないこと、(九)証人岡田唯雄(本件の起訴検事)の第二審における証言によると、本件発生に当っては自ら検察官としてその捜査に従事し、第一審公判ではその立会検察官として公判に出席し、本件公訴の維持に努めた同人すら被告人の司法警察員に対する自白には芝居じみたところもあってこれを信用せず、疑を持ったことが明らかであり、また第一審第五回、第九回、第一〇回公判調書によれば、同検事がとかく右供述調書を公判に提出することを渋ったかの如き事実が窺われること、以上のような諸般の事実を総合すると、被告人の司法警察員に対する自白は、その任意性に疑があると見るのが相当であるというべきである。しからば原判決が被告人の司法警察員に対する本件供述調書に任意性ありとし、第一審判決がこれを他の証拠と総合して犯罪事実を認定したことを是認したのは、右調書の証拠能力に対する判断を誤り、採証すべからざる証拠を証拠とした違法があるに帰し、しかも右供述調書は犯罪事実認定の有力な証拠となっているものと認められるから、この違法は判決に影響を及ぼさないとはいえず、原判決はこれを破棄しなければ著しく正義に反すると認めるとして、原第二審判決を破棄し、本件を当裁判所に差し戻す旨の判決をしたのである。

第三、上告審判決の指摘する問題点の究明

当裁判所は事実審理を開始し証拠調をした結果に基き最高裁判所の指摘した問題点について以下順次これを究明することとする。

(一)被告人が警察において暴行、拷問を受けたという主張について。

先ず昭和二五年六月二〇日及び六月二二日の両日鈴木忠雄が被告人の取調に当ったかどうかについて按ずるに、鈴木忠雄が昭和二五年六月二一日午前一〇時いわゆる二俣事件の証人として静岡地方裁判所浜松支部に召喚され、同期日に出頭して尋問を受けたことは証人鈴木忠雄の第一審、原第二審及び当審における各証言、静岡地方裁判所浜松支部裁判所書記官宮崎俊介作成の証明書により明らかである。そして証人鈴木忠雄は第一審においては、六月二〇日の日に自宅にかえるべく小河内を下って署により、主任に休暇を願い出て許可を得、同日より同月二二日までは捜査に従事しなかったと証言し、原第二審においては、六月一九日の晩は農協支部(当時捜査本部のあったところ)に泊り二〇日朝紅林主任等と庵原地区署にきたが、二一日は二俣事件の証人として浜松支部から呼出を受けていたので、二〇日朝庵原地区署長に挨拶をして清水を出発し、その夜は二俣町の尾張屋に泊り、二一日朝二俣署の小型自動車で浜松支部に出頭し、当日は証人が五人ばかり呼ばれており、私は午後調べを受け(昭和二五年六月二二日附静岡新聞の記事中二俣事件に関する記事の写真によると鈴木忠雄の証人尋問は午前中に済んでいることが認められるからこの部分は措信し難い)北徳太郎等と一緒に浜松で夕食を食べ、その晩は静岡市水道町八九番地の転居先の自宅にかえって泊り、翌二二日は右自宅の棚造りや片付けなどをしたり近所や旧住所の方へ挨拶に行ったりしてその晩も自宅に泊り、二三日朝から出勤したと証言し、更に当審においては、六月二一日は二俣事件の証人として出頭を命ぜられていたので、六月二〇日午前八時過庵原地区署長に申告の上国鉄清水駅より二俣駅に向い、同日正午前頃二俣駅に到着し、直ちに二俣警察署に赴き二俣事件関係の記録を調査し、同夜は尾張屋に宿泊したと述べた外原第二審と同二審と同趣旨の証言をし、いずれも被告人が六月二〇日及び六月二二日に鈴木忠雄より暴行、拷問を受けたとの主張に対し右両日は本件捜査に関係していないと証言し、右両日捜査に関係しなかったことの理由について尋問を受ける度に次第に詳細になっている。そして鈴木忠雄の証言の裏付けとして当審証人草間喜代美(本件発生当時の庵原地区署長)は、鈴木忠雄は昭和二五年六月二一日二俣事件の証人として浜松支部に出頭を命ぜられていたが、被告人が逮捕された直後の雨の日の朝鈴木からこれから出かけるという挨拶を受けた旨、当審証人鈴木進(本件発生当時の二俣警察署長)及び同新井孝太郎(当時の同署警察官)は、鈴木忠雄は二俣事件の証人として召喚されたといってその前日の昼頃か昼過頃二俣署にきて、二階で二俣事件の記録を調べ、その晩は二俣町の尾張屋に泊った旨各証言している。従って鈴木忠雄は六月二〇日に二俣警察署によって二俣事件の記録を調査し、同日夜同町尾張屋に泊って翌二一日の公判に出頭したことは窺われるが、同人が清水駅を出発した時刻及び二俣駅に到着した時刻については、右証人草間喜代美、同鈴木進、同新井孝太郎の各証言によると、鈴木忠雄は六月二〇日朝清水駅を出発し正午頃には二俣駅に到着したようになっているが、右各証言はいずれも特段の根拠のない不正確な記憶によるものであり、日本国有鉄道静岡鉄道管理局長広瀬真一作成の昭和二五年六月二〇日当時の国鉄富士、浜松間及び二俣線列車ダイヤについてと題する書面によると、清水駅を一三時二八分に出発しても二俣駅には一六時三九分には到着することができるのであり、当時は六月二〇日であって一年の内最も昼間の永い季節で一六時三九分頃はまだ日没までには相当時間があり、記録調査のための時間は十分あると考えられる点に鑑み、前記証人等の証言は他に正確な根拠がない限り、にわかに措信し難く、その他これを確認するに足りる資料は存しない。また当審証人望月たけ、同落合きぬ、同鈴木寿美子の各証言を総合すると、鈴木忠雄は昭和二一年頃から静岡市長谷町の落合きぬ方に下宿し同所で世帯を持ち、昭和二五年五月中旬頃鈴木の出張不在中に同市水道町八九番地に転居したが、偶々同年六月二一日鈴木が二俣事件の証人として浜松支部に出頭したかえりに始めて転居先の自宅によって一泊し、その近所及び元同居先の落合方に挨拶に行ったことが認められる。そして右証人や鈴木寿美子は夫忠雄は二二日は午前中は家に居て棚造りや軒下の張り出し等をして午後三時頃出て行った旨証言しているが、当時は重要犯人として被告人が逮捕された直後であって、捜査係員がたとえ一日と雖も休暇をとるということは特に止むを得ない事情があれば格別然らざる限り通常あり得ないと考えられるから鈴木寿美子の右証言はにわかに措信し難い。

また昭和二五年六月二〇日附捜査報告書(司法警察員小倉一男同矢部宜治共同作成のもの)には報告者として小倉一男及び矢部宜治の署名押印があるだけで鈴木忠雄の署名押印がなく、従って同日鈴木忠雄は被告人の取調に関与しなかったのではないかという疑問がない訳ではないが、しかし鈴木が午前中だけ被告人の取調に関与し右報告書作成当時は不在であったため連署しなかったことも考えられない訳ではないから、右捜査報告書に連署していないという一事を以て同日鈴木忠雄が被告人の取調に全然関与しなかったとは断定し難い。

次に当審の検証調書(昭和三三年一二月八日附)及び原第二審の検証調書(昭和二九年七月一〇日附)によると、被告人が六月二〇日に暴行を受けたという部屋は当時は刑事分室で硝子戸を隔てて約六尺の距離に民家があり、また六月二二日に暴行を受けたという部屋は、当時は当直室で同所は新聞記者室や小使室が近くにあり、裏側は自転車置場となっていたことが認められ、当審証人永坂鈴江、同高木孝子の各証言によると、被告人が七月四日夜名の知らない刑事から暴行を受けたという二階電話交換室の隣の部屋は、電話交換室と硝子戸一枚で続いており、その部屋に入るには電話交換室を通らなければならないことが認められる。従ってかかる場所で被告人が主張するように刑事が大きな声で怒鳴ったり、無茶苦茶に殴るというようなことは通常なし得ないのではないかとも考えられるし、鈴木忠雄は昭和二五年六月二一日二俣事件の公判に証人として召喚され拷問の有無についても尋問を受けており、当時は幸浦事件及び二俣事件の公判が進行中でいずれも警察で拷問が行われたとして新聞紙上に報道されていたことは記録上明らかであるから、かかる時に被告人の主張するような暴行を加えるというようなことは通常なし得ないのではないかとも考えられるのであるが、最高裁判所は被告人の主張するような暴行、拷問の事実は今直ちにそのまま信用する訳には行かないとしながら、しかもなお差戻判決で指摘した諸般の事実を総合すると、被告人が一審以来供述してやまない程苛酷なものであったかどうかは別としても、そこには可なり無理もあったのではないかと考えざるを得ないというのであるから、前記認定の事実だけではいまだ最高裁判所のいうような無理な調べが全然なかったと断定することはできない。

(二)証人早崎俊造が第一審及び原第二審で「昭和二五年六月二〇日か二三日に房の横の看守の部屋で被告人が足に赤チンを塗っていた、そこに刑事が入ってきてそんなになったのかと云っていた、被告人の膝から下の前の方に塗っていた」旨証言した点について。

庵原地区署備付の昭和二五年度入場者名簿(添代書類を含む)によると、被告人の父平次郎は昭和二五年六月二一日現金一五〇〇円を差し入れたところ、同月二七日被告人の申出により同地区署員が手拭一本四五円、チリ紙一束二〇円を購入して与え、同年七月六日被告人が庵原地区署より静岡刑務所に移監される際残金一四三五円を受領していることが明らかであるから、被告人が右差入金で六月二二日頃望月主任に赤チンを買って貰ったという供述は輙く措信し難いのであるが、当審証人望月美之次の証言によると、マーキュロ等の薬品は署に備付けてあり必要があればこれを支給するというのであるから、被告人が望月主任に買って貰ったという供述が措信し難いとしても直ちに証人早崎俊造の前掲証言が措信し難いとはいえない筋合であり、また東京拘置所の被告人の健康診査簿(写)によると、被告人が昭和二五年七月六日静岡刑務所に入所した当時被告人の健康状態として疾病その他異状がない旨の記載があり、その際被告人の足に傷があったという記載はないが、原第二審証人土肥直方(当時の静岡刑務所医務課長)の証言によると、新入者の健康状態の診断は他の在監者と同房させることのできない内科的又は外科的疾患の有無及び畸形等の特徴を発見することを主眼とするもので、擦過傷や水虫のようなもので本人からうったえがないか又は手当を要しない場合はそのことは通例健康診査簿に記載しないというのであり、また当審証人森下善平(被告人を窃盗事件の被疑者として取り調べた検察官)は、昭和二五年六月二一日、同月二九日及び七月六日被告人を取り調べたが、その際被告人の顔色や歩き方に変ったところはなく傷も見受けなかった旨証言しているが、早崎が被告人が赤チンを足に塗っているのを見たというのは足の膝から下の方の前の方だというのであるから、被告人が右検察官の取調を受けた際自ら進んで出して見せない限り見えない訳であり、歩き方に影響を及ぼす程酷い傷でなくても赤チンを塗る場合もあると考えられるから、右森下証人の証言や健康診査簿の記載によって直ちに早崎俊造の証言が信用し難いと断定することはできない。

(三)証人村瀬昭一が原第二審で、「松永の左か右の頬に腫れたところがあった、殴られたと聞いたのでそのように思った」旨証言した点について。

証人村瀬昭一は原第二審において、自分は暴力行為等処罰ニ関スル法律違反事件で昭和二五年一月二〇日静岡刑務所に収容され、同年九月二五日保釈出所するまで同刑務所に勾留されていたが、その間約二、三ヶ月松永と同房にいたことがある。それは独房であるが当時は収容者が多かったため二人宛入っていた、そして二人が一緒になって一、二日経ってから被告人と色々話をしたが、松永が面会があった後泣いていたので私は松永に、やってから泣いても遅いではないかと言ったら、松永は実際はやっていないのだ自分は警防団に入っており三輪車の運転をやる関係で始めは警官と一緒に犯人捜査に歩いた、その後逮捕されるようになり、やらないと云ったら殴られたので、やったと云ったのだと話した。松永は殴られたと云って左か右の頬を見せこのとおりだと云ったので見ると腫れたところがあったから殴られたため出来たと思った旨証言している。そして静岡刑務所長作成の入監房について回答及び入監房間の距離についてと題する各書面によると、村瀬昭一が昭和二五年一月二二日より同年九月二五日まで静岡刑務所に在監し、拘置場第三舎四房に入監したこと及び被告人は同拘置場の第七舎一舎七房に在監し、被告人と村瀬昭一の房との距離は三〇、七米あるというのであるが、被告人と村瀬昭一が同一房にいたことがあるかどうかについては不明であるというのであるから、右書面によっては右両人が同一居房にいたことがないとは断定し難い。当時一般に刑事被告人が過剰で各拘置所において刑事被告人の拘禁に苦慮したことは司法部内においては顕著な事実であった点に鑑み、また村瀬昭一が被告人から聞いたという話の内容の全趣旨から見ても同人の証言が全く虚偽のものとは認められない。被告人と村瀬昭一が同一居房となった日時については村瀬昭一の証言によると、松永と一緒になって一、二日経って面会があり面会からかえってから松永は泣いていたというのであり、被告人の身分帳の写真及び当審証人石田熊太郎(刑務官)の証言によると、被告人に一番最初面会にきたのは昭和二五年七月一三日被告人の妻きよ子であり、その面会に立会った右石田熊太郎の証言によって認められる被告人ときよ子との面会の時の問答の内容から考えると、被告人が面会の後房にかえって泣いていたというのはその時と考えられるから、被告人と村瀬昭一が同一居房となったのは七月十一、二日頃と考えられる。従って被告人が刑事等に殴られたと主張する最も近い日時(七月四日)からしても既に一週間を経過していた点に鑑み右村瀬昭一の証言中被告人の左か右の頬に腫れたところがあったという点については聊か疑なしとしないが、被告人が村瀬に対し警察で殴られたので自白したと云ったという点は真実ではないかと推察されるのである。

(四)証人西山猛司が原第二審で「七月六日頃被告人が庵原地区署から静岡刑務所に送られるとき、同人にマーキュロとペニシリン軟膏を手渡した」旨証言しており、東京拘置所長の収容者の領置品に関する件回答書には、被告人が七月一〇日収容携入した品の中にマーキュロとペニシリン軟膏があった旨の記載があることについて。

被告人が静岡刑務所に収容される際マーキュロとペニシリン軟膏を携帯していたことは東京拘置所長の収容者の領置品に関する件回答書により明らかである。被告人は右マーキュロとペニシリン軟膏は庵原地区署で刑事の暴行によって出来た傷につけるため望月警部補に買って貰って六月二二日頃から使った物の残りであると供述し、証人西山猛司は原第二審及び当審で、昭和二五年七月六日被告人が庵原地区署から静岡刑務所に送られるとき、被告人が足の指の間をかいているので水虫ができていると思い、自分も前に水虫にかゝりペニシリン軟膏とマーキュロをつけて治ったことがあるので、マーキュロとペニシリン軟膏を買ってきて被告人に渡した旨証言し、証人望月美之次も原第二審及び当審で、自分は被告人にペニシリン軟膏やマーキュロを買ってやったことはないと証言し、被告人の供述と証人西山猛司及び証人望月美之次の各証言との間にくいちがいがあることは原第二審当時も当審においても変りはない。最高裁判所は右のようなくいちがいがあるに拘わらず西山猛司が七月六日に被告人が静岡刑務所に送られるとき同人にマーキュロとペニシリン軟膏を渡した事実を指摘し、これをその他の指摘した事実と総合して被告人の司法警察員に対する自白の任意性に疑いがあるとしているのであって、右事実については当審においてこれを否定すべき証拠は何等顕われないのである。

(五)昭和二五年七月五日被告人が検察官等と共に現場検証に来た際、被告人の妹勝子及び父平次郎が被告人の左のもみあげのところが黒ずんでいたのを見た旨第一、二審で証言し、被告人の母きみは原第二審で同日被告人は肥えていると思ったが今思えばむくんでいたのである旨証言し、更に右平次郎は原第二審でその翌日苦情をうったえに但沼巡査部長派出所に赴いた旨証言し、証人森亀太郎は原第二審で、被告人の父平次郎が昭和二五年七月六日但沼巡査派出所を訪ねてきた旨証言した点について。

当審証人下島高一、同大沢正一、同大沢あき、同滝志づ、同堀池新作、同加瀬沢芳雄、同宮城晴行、同山本安秋、同宮城隣平、同山本猛、同漆畑喜作は、被告人が検察官等と共に現場検証に来た際被告人の顔面等に異状を認めなかった旨供述し、最高裁判所の指摘した証人松永勝子、同松永平次郎、同松永きみの右証言と相反するような証言をしている。しかし前掲各証人等の各証言を仔細に検討すると、同人等は特に被告人の顔面等に異状がないかどうかを注意して見た訳ではなく、数メートル先を歩いているのを見たとか、自動車に乗っているのを見たとか、被告人の右側で見たとか、一寸見たという程度であって特に左のもみあげを見たというのではないから、右証人等の証言によって直ちに右松永勝子、松永平次郎、松永きみ等の前記証言を措信し難いものとすることはできない。却って被告人の身分帳の写真によると、松永平次郎は昭和二五年八月二十四日被告人に面会に行った際、「お前が実地検証に来た時顔がくろずみって居たがあれはどうしたのだ」と発問していることが明らかであり、当審証人山本猛の証言によると、被告人が検事の検証で現場に来た際「色が白くなって肥ったと思った」というのであるから、松永勝子、松永平次郎、松永きみの前示各証言は、その黒ずみの出来た原因又は肥えて見えた原因が何であるかは暫く措くも、同人等がその証言の如く感じたという点はこれを信用することができる。そして最高裁判所は右各証言を指摘しこれとその他の指摘した諸般の事実と総合して警察における被告人の取調は可なり無理があったのではないかと考えざるを得ないとして被告人の警察における自白の任意性に疑があると判断したのであって、当審における総ての証拠調の結果に徴しても最高裁判所の指摘した右問題点を解明するを得ない。

(六)被告人の司法警察員に対する第三回供述調書(昭和二五年六月二二日附)によると、被告人は同日朝刑事に対しては自白を飜えしたが、後また犯罪を認めるに至ったこと及びその取調の時刑事が長い棒を持ってきたことが窺われることについて。

当審証人紅林麻雄、同矢部宜治、同小倉一男の各証言によると、被告人を取り調べているとき調室に新聞記者やその他の者が無断で入るのを防ぐため矢部刑事が薪の切端を持ってきて入口の引戸に合うように折って心張棒に使ったというのであり、被告人もこの棒で殴られたとは述べていない。たゞ被告人は取調を受ける最初に刑事が何か棒を持ってきて、被告人の座っている後方で棒でドンドン床をついたり折ったりしたのでその棒で殴られるかと驚いたが、取調が終ってかえる時見たら心張棒に使ってあり、刑事は警察では新聞記者などが入らないようにしてお前のためを考えているのだと話してくれた旨供述しているのである。従って警察側においては真実新聞記者等の無断入室を防ぐ目的で棒を持ち込み入口の引戸に心張棒として使っただけであったとしても、取調を受けている被告人の心裡に何等かの恐怖感を与えなかったとはいえないのであり、最高裁判所は右の事実と被告人が一旦刑事に対し自白を飜えしたが、後また犯罪を認めるに至った事情とを併せ、これを指摘して被告人の自白の任意性判断の資料としているのであって、これを否定すべき証拠は存しないのである。

(七)被告人の司法警察員に対する各供述調書を仔細に点検すれば、被告人は本件自白の重要部分であり、且つ記憶違いをする由もないと考えられる犯行決意の日時、手提金庫を開けようとして使用した道具の点について供述を変更しているとの点について。

この点については、かゝる変化のある調書が作成されていることこそ取調に強制又は誘導等が行われていない証拠であって、強制又は誘導等が行われたとすれば始から一貫した調書が作成されている筈であるとの見解も成りたつのであるが、しかしその反対の見解も成り立つのであって、最高裁判所はその反対の見解に立ち、これとその他の指摘した諸般の事実とを総合判断の結果、司法警察員の第一、二審における弁明の証言にも拘らず被告人の警察における自白はその任意性に疑があるとしているものと考えられ、この点の疑を解明するに足りる新たな証拠は存しないのである。

(八)警察では紅林警部補が主として被告人の取調をしていながら、自らは調書を作成せず、わざわざ望月警部補をしてこれを作成せしめるに至った理由が判然としないとの点について。

本件記録によれば警察における被告人の取調は主として紅林警部補がその下調に当り、望月警部補が供述調書を作成していることは明らかである。しかし当審における事実審理の結果に徴すると、司法警察の分野においては当時一般に被疑者の下調には刑事係が当り、その結果を司法主任に報告し、司法主任がこれに基き更に被疑者を取り調べて供述調書を作成する慣例があり、本件もその慣例に従ったもので、即ち紅林警部補は静岡県警察本部機動班所属の強力犯係で同県下に発生した重大な強力犯事件に派遣され、刑事係として部下を指揮して被疑者の下調その他犯罪捜査の任務に従事していたが、本件が発生するや直ちに現場に派遣され犯罪捜査に従事し被告人が逮捕されるやその下調をなし、その結果を所轄庵原地区署司法主任たる望月警部補に報告し、望月警部補はその報告に基き更に被疑者を取り調べて本件各供述調書を作成したものであることが認められ、このこと自体は特に不当な取調方法とは認められないから最高裁判所の懐いた疑は解明されたものと解する。

(九)本件の起訴検事であり、第一審の公判に出席して公訴の維持に努めた岡田唯雄ですら、被告人の司法警察員に対する自白には芝居じみたところもあってこれを信用せず疑を持っており、その供述調書を公判に提出することを渋ったかの如き事実が窺われるとの点について。

本件の起訴検事であり第一審においては公判に出席して本件公訴の維持に努めた岡田唯雄は、原第二審において証人として、被告人の司法警察員に対する自白は芝居じみたところがあって信用できなかった旨証言し、更に当審においては、右自白は小学生の作文のようで信用できなかった旨証言し、また第一審において被告人の司法警察員に対する各供述調書を公判に提出することを渋ったことは同証人の当審における証言により明らかである。たゞ同人は右供述調書を公判に提出することを渋ったのは当時は新刑事訴訟法施行後間もない時で被告人の供述調書は検察官調書のみを公判に提出し、警察調書は提出しない方針をとっていたためで警察調書の任意性に疑があったからではないと弁明しているが、しかし新刑事訴訟法においても被告人の供述を録取した書面で被告人の署名若しくは押印があるものは、その供述が被告人に不利益な事実の承認を内容とするもの又は特に信用すべき情況の下にされたものであるときは、任意性に疑がない限りそれが警察調書であると検察官調書であるとを問わず、これを証拠とすることができることは同法第三二二条第一項の規定するところであるから、公判廷において被告人が前の自白を飜えした本件のような場合には、警察調書であっても公判に提出することは検察官として当然の任務であると考えられる。しかるに岡田検事がこれを公判に提出することを渋ったのは単に小学生の作文のように幼稚であり、芝居じみたところがあって信用し難いためばかりでなく、或は同人が原第二審で証言しているように、被告人が警察で無理をさせられ符合させているのではないかという考慮からではなかったかとも考えられる。いずれにしても最高裁判所の指摘した疑問を十分に解明し得るには至らないのである。

以上説明の如く最高裁判所が差戻判決において指摘した問題点のうち、紅林警部補が主として被告人を取り調べながら自ら調書を作成せず、わざわざ望月警部補をしてこれを作成せしめたとの点については、当審においてその理由を解明し得たと思料するも、その他の問題点については当裁判所における総ての証拠調の結果に徴してもいずれもこれを解明することができなかったのであって、従って右解明し得た点だけでは最高裁判所の示した判断を左右することはできない。然らば当裁判所は裁判所法第四条の規定により最高裁判所の示した判断に拘束される結果当裁判所としても被告人の司法警察員に対する自白はその任意性に疑があると認めざるを得ない。

第四、被告人の検察官に対する自白の任意性について。

各論旨は被告人の検察官に対する自白は被告人が警察における暴行、拷問による畏怖の念から真実を供述する意思の自由を喪失している際においてなされたものであるから、検察官による暴行、拷問等の事実がなくとも任意性を否定すべきであると主張するのである。よって按ずるに、被告人の検察官に対する第一回供述調書は、昭和二五年七月五日庵原地区署で警察官の取調に引き続き行われた取調に基き作成されたものであり、第二回供述調書は、被告人が同月六日静岡刑務所に移監された後二日目の同月八日静岡地方検察庁で行われた取調に基き作成されたものであることは記録上明らかである。原第二審及び当審証人岡田唯雄(本件の起訴検事で第一審では公判に立会い公訴の維持に努めた)は、昭和二五年七月五日被告人を取り調べた時は庵原地区署の二階の経済室で事務官と被告人と三人だけで警察官を立会わせず部屋の戸を明け放し、圧迫感を受けないようにして調べ始め、先ず被告人に対し、この事件は君の私に対する自白が信用されるかどうかゞポイントである、君はいろいろ調べられ自白しているが自分には信用できない、君が今私に違うと誓うならば直ぐにかえす、私に自白をすればそれが唯一の証拠となって強盗殺人罪となり死刑か無期懲役になる、君の自白が証拠になるのだからその点をよく考えて云ってくれと云ったところ、被告人はやったことは間違いない、死刑になっても仕方がない、云いますと云ったので、黙秘権というものがあることを告げたが被告人はやったことは間違いないと述べた旨、原第二審及び当審証人下島高一(当時検察事務官として岡田検事の取調に立会った)は、昭和二五年七月五日岡田検事が庵原地区署で被告人を取り調べた際は同署の二階の防犯統計室で岡田検事と私と二人だけで被告人に手錠はせず窓は明けておいた、岡田検事は先ず被告人に対し、これから尋ねることについて云いたくなければ云わなくてもよい、こゝに証拠は何もない、しかし被告人が自分がやったということを云えばそれが唯一の証拠となるからと告げると、被告人は自分がやったことは間違いないと述べ、更に若しやったということになれば死刑になるかと尋ねたのに対し岡田検事は死刑になるというと、被告人はどうなってもよいと云うので取調を進め供述調書を作成して読み聞かせたところ、被告人は五ケ所を指摘して訂正を申し立てたのでそのとおり訂正した旨証言している。そして検察官の取調については何等強制、誘導その他不当な圧迫のなかったことは被告人も認めているのである。故に検察官が被告人を取り調べた当時は形式的には警察官による不当な圧迫からの影響は一応遮断されたかの如き観がないでもないが、しかし刑事訴訟法第三一九条第一項にいわゆる強制、拷問、脅迫等による自白とは、自白の任意性を失わせるような不法不当な圧迫が取調当時現に行われつゝあるか又は過去において行われたことにより将来も再びそのような圧迫が繰り返される虞がある状況においてなされた自白を指称し、再びそのような圧迫が繰り返される虞のある状況という中には主観的に将来かゝる圧迫が加えられると考えることが合理的な理由に基く場合をも包含するものと解するを相当とするところ、原第二審及び当審証人下島高一、同岡田唯雄、同紅林麻雄、同望月美之次の各証言によると、岡田検事は本件発生の直後現場に臨み親しく実況見分をし現場の模様を知悉していたばかりでなく、その後も司法警察員紅林麻雄、同望月美之次等から屡々取調状況の報告を受け或は被告人の供述調書を検討しその都度捜査の不備を指摘して警察員を指揮していたところ、昭和二五年七月五日愈々警察の捜査が大詰となったので下島事務官を帯同して当時被告人が留置されていた庵原地区署に出張し、同日午前の司法警察員望月美之次の最終的取調に引続き同署二階で取り調べたものであり、被告人の検察官に対する自白の内容も被告人がそれまで司法警察員に対してなした自白の内容と概ね一致している。そして証人岡田唯雄は当審において、私が被告人を取り調べた感じとしては、被告人が否認することは時間の問題であると思っていたところ、起訴前の同月一八日頃被告人を呼んで調べて見たら予想したとおり否認したので今となってはおそいから公判で争うがよいと云った旨証言しているのである。一方被告人は、同年六月末頃地検から検事が庵原地区署にきて二階の防犯室で調べを受けたことがあるが、その際検事は望月主任の取った調書を写したものを読んで聞かせ間違いないかと聞いたので、そんなことは皆嘘です、私はこの事件には関係がありませんと否認したら検事はそのまゝかえってしまったが、その後鈴木刑事からお前は検事にも嘘を云うのかといって暴行され、更に七月四日夜刑事等から調べを受けた際もお前は嘘を云っているといって殴られたので、七月五日に検事の調べを受けた際も真実を述べることができなかった、供述調書を読み聞かされた時一部訂正して貰ったのはそれまで警察で述べたことと合せるためであったし、七月六日静岡刑務所に移監される時同行した刑事から、これで取調が終った訳ではないからこれからも行く、今度検事のところに行ったら今迄述べたうちで違っているところや手袋の話をしろと云われたので、七月八日検事の調べを受けた際にもそのとおりに述べ真実を述べることができなかった旨弁解している。そして岡田検事が七月五日の前に庵原地区署に出張して被告人を調べたことがあるかどうかについては同人は証人としてこれを否定しているが、当審証人矢部宜治は岡田検事は六月二四、五日頃事務官をつれて庵原地区署に来たことがある旨、また当審証人紅林麻雄は六月末か七月初頃岡田検事が庵原地区署に来て捜査について注意をされたことがある旨各証言しているのであって、これらの証言に徴すると、被告人が六月末頃一度検事の調べを受けたという供述は全然虚偽のものとは断じ難い。そして被告人の司法警察員に対する自白にはその任意性に疑があるものであることは前段説明のとおりであるから、以上のような諸般の事情を総合して考えると、たとえ検察官において何等不当な圧迫を加えた事実がなく、任意の供述を求めるため細心の注意を払ったとしても、被告人の主観においては若し否認をすれば将来再び不当な圧迫が加えられる虞があると考えたことは合理的な理由があるものというべく、従ってその直前迄継続していた警察の不当な圧迫から何等の影響を受けずになされた任意の自白であると断定することはできないのであって、被告人の検察官に対する第一、二回供述調書における自白の任意性についても疑があると認めるのが相当である。

以上の如く被告人の司法警察員及び検察官に対する各自白はいずれもその任意性に疑があり、これを録取した各供述調書はいずれもこれを証拠となすべからざるものであるのに、第一審判決がこれをその他の証拠と総合して犯罪事実を認定したのは採証の法則に違反した違法があり、しかも右各供述調書は犯罪事実認定の有力な証拠となっていると認められ、その違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから論旨はいずれも理由がある。

足立、西ケ谷両弁護人の控訴趣意第三点、海野、芦田両弁護人の控訴趣意第二点海野、竹下、内田、小田四弁護人の控訴趣意書に対する補足陳述書第二点、第三点、及び被告人の控訴趣意中事実誤認の論旨について。

第一審判決が事実認定の証拠として挙示した証拠のうち、被告人の司法警察員及び検察官に対する各自白の任意性に疑があり、従ってこれを録取した被告人の司法警察員に対する第二回乃至第八回供述調書及び検察官に対する第一、二回供述調書に証拠能力がないことは既に説明したとおりであるが、第一審判決は被告人の自白を内容とするものとして更に第一審裁判官の被告人に対する勾留尋問調書を採用しているので、右調書について按ずるに、右調書については第一審において弁護人がこれを証拠とすることに同意し、第一審において適法に証拠調をしているのであって、その任意性を否定すべき事情は見当らない。よって更に進んで右調書における自白の真実性について考察するに、被告人は昭和二五年七月一二日静岡地方裁判所裁判官大沢博より勾留尋問を受けた際、「被告人は昭和二五年五月一〇日午後一一時頃庵原郡小島村舟場大沢保方において同人の妻ゆきを同家の斧で三回打ちつけ頭部及び前額部の割創による出血により即死せしめ同所にあった同人所有の現金二五〇〇円を強奪した」旨の被疑事実を読み聞けられ、そのとおり相違ありませんと答えた旨記載されているが、被告人の司法警察員及び検察官に対する自白の任意性に疑があることは前に説明したとおりであり、その他被告人が本件の犯人であることの決め手となるべき物的証拠の全く存しない本件においては、右勾留尋問調書の自白はその真実性が極めて乏しいものといわなければならない。次に第一審判決が事実認定の証拠として挙示した昭和二五年七月六日附検察官の検証調書によると、検事岡田唯雄が同年七月五日本件現場の検証をした際被告人も同行を命ぜられ、犯行当時の模様を実演した旨、即ち、(一)被害者大沢ゆきを殺害するときの動作(二)右大沢ゆき方に侵入する際入口戸袋の心張棒を外すときの動作(三)右犯行後自宅に帰る途中溝沢橋附近で人のくる気配を感じ溝沢橋の下にかくれた際の動作その他現金のあった場所や犯行に使用した斧の置いてあった場所の指示等をそれぞれ被告人自ら実演した旨の記載があり、証人望月美之次、同紅林麻雄、同岡田唯雄、同下島高一、同大石長一、同西山猛司、同大沢正一等の第一審、原第二審又は当審における証言によると、被告人の右動作はいずれも他人の強制を受けることなく全く自由な状態においてなされたというのであるが、記録によれば本件は平和な山村に起った極めて残酷な強盗殺人事件で、当時その地方の住民に非常なる恐怖感を与えた上現場附近に捜査本部が設けられ、数十人の警察官によって捜査が進められたに拘わらず、被告人がその犯人として検挙せられるまで約四十日を要したため、附近住民の間では被害者が殺害された当時の状況、被害者方及びその附近の当時の模様等について屡々話題となり、被告人もこれを聞知していたと推認されるばかりでなく、被告人は予て被害者大沢ゆき方に度々行ったことがあって同人方の出入口の模様などを知っていたことが認められるし、被告人は右検証当時までに司法警察員より七回、検察官より一回取調を受け被害者が殺害された当時の状況、被害者方及びその附近の当時の模様等について比較的詳細な知識があった訳であるから、たとえ不任意ながらも司法警察員や検察官に対し犯行を自白する心境にあった被告人としては、右取調の直後に現場に同行され実演を命ぜられた以上他人の強制がなくても自己の自白に合わせた動作をなし得たことはむしろ当然というべきである。当審における証人岡田唯雄の証言によると、被告人を検証現場に同行するに当り予め被告人に対し現場で実演して見せろと云っておいたことが窺われるから、被告人としては予めこのことを考えていた筈であって従って恰も自己が過去に経験した如く振舞うことができたものと考えられる。故に右検証調書中被告人の実演に関する部分及び第一審判決挙示の証拠のうち証人大沢正一、同望月美之次、同紅林麻雄の各証言中被告人の右検証の際における実演に関する部分はいずれもこれを有罪の証拠とする価値がないものといわなければならない。そして第一審判決の挙示するその他の証拠を総合するも本件公訴事実を認定し被告人を有罪とするには足りない。然るに被告人を有罪と認定した第一審判決は事実の認定を誤ったものというべく、その誤が判決に影響を及ぼすこと明らかであるから各論旨は理由がある。

以上説明の如く第一審判決は証拠能力なき証拠を証拠として採証法則の違反があり、延いては事実誤認の疑があって、その違法乃至誤はいずれも判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、その他の論旨に対する判断を省略し、刑事訴訟法第三七九条、第三八二条、第三九七条に則り第一審判決を破棄し、同法第四〇〇条但書により更に次のように判決する。

本件公訴事実は

被告人は静岡県庵原郡小島村小河内一一五六番地大沢保が大阪方面に旅行中にて同人の妻ゆき(三二年)が留守居しているのを聞知し、同人を殺害して金員を強奪せんことを決意し、昭和二五年五月一〇日午後一〇時頃右大沢保方の二階において、同家の下駄箱の横に置いてあった斧を以て就寝中のゆきの頭部及び前額部を三回打割り、因て同部位の割創による出血により死亡せしめ以て殺害を遂げた上、同家の勝手場の茶箪笥の上に置いてあった同人所有の現金二五〇〇円(一〇〇〇円札二枚一〇〇円札五枚)を強奪したものである。

というのであるが、これを認めるに足りる犯罪の証明が十分でないから、刑事訴訟法第三三六条に則り被告人に対しては無罪を言い渡すべきである。

よって主文のとおり判決する。

(裁判官 渡辺辰吉 裁判官 関 重夫)(裁判長裁判官 坂間孝司は転任)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例